幕末の人物
井上聞多
・この名は世子(長州藩主世継ぎの尊称)から賜った
・諱は惟精
・明治は井上馨と改名する。
・天保6年生まれにして満79まで生きる
井上馨といえば「ああ、汚職の・・・」と思われるだろう。
否定しない。
井上聞多は長州藩士の上士であり、世子の側仕えという大変将来有望な役職についていた。
そんな井上が友人として交際したのが、当時桂小五郎・育(※長州特有の制度。優秀な人材を立てるため、後見をつけ与力のような立場を与える/ちなみに桂に断りなく高杉が伊藤を育にした。桂に断りもなく)であった伊藤博文である。
この二人の交友は大変長く続き、明治は家と家との交流であった。
井上は自身が保守体制側でありながら、そういった家は薄く、どちらかというと堅気とも違った・・・まあそっち側に非常になじんだ、といわれている。
日本が鎖国、しかも長州という攘夷の総本山である長州が極秘に出した「密留学五人(長州ファイブ)」のメンバーの一人であった。
が、もともと正規のメンバーに井上はいなかった。
そこを世子にほめられた早耳の聞多はどこからともなく聞きつけ、責任者の周布政之助に「俺たちを連れて行かないとばらす!!」と正しく脅して、井上と伊藤はイギリスの密留学メンバーになった。
また大変金策が得意な男であり、それが災いして明治の汚職大臣と呼ばれるわけだが・・・。
高杉が「聞多、資金ぐりよろしく」といわれるとどこからともなくお金を工面してくるという。
―――つまり、聞多の「公でも私でも金は金」の精神は高杉が育んだ・・・?
五人の密航のうち、井上と伊藤だけは6ヶ月で帰国する。
四カ国連合下関砲撃がせまったからだ。
お神酒徳利とまでいわれたツーカーの二人はほかの三人と別れ帰路につき、日本史の舞台に再び顔を出す。
うんやかんやで高杉が幕引きしたこの一件の余波はすごく、聞多はある日奇襲された。
真夜中である。
全身53ハリという大怪我を負った聞多は介錯を頼んだが母親が「聞多を斬るなら母も斬りなさい!」といい介錯ではなく治療がなされた。
四日でおきて飯を食べるようになった。
二ヶ月もすれば前線復帰した。
この脅威の生命力ばところどころに発揮されており、なるほど、79まで生きただけはある、と思わせる。
聞多の出自のよさは、家系を見れば一目瞭然だろう。
生まれの井上家は戦国のあの井上の傍流であるし、養子に行った先はあの志道である。まさにお歴々のお家に生まれながら生涯の友は伊藤博文という水のみ百姓の倅なのだ。
2008年10月 2日|
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