歴史関連
喧嘩するほど仲が悪い
戦国三大犬猿の仲、とやらがあるとしたら、きっと名前が連なるであろう小西行長と加藤清正の話をすこし。
加藤清正といえば熊本城。
熊本城といえば西南戦争でなぞの出火
そして日本三大名城
武者返し!!
江戸260年熊本を治めたのは細川家なのですが、知名度は圧倒的に清正ですよね。そしてその細川より知名度が低い(かもしれない)のが同じく熊本の宇土を治めていた小西行長です。
清正と行長は、本当に仲が悪い。
「商人風情が武士の真似事するんじゃねーっ!!」
「じゃかしい!能筋が!!」
大体こんな感じで二人の仲は割れていました。
いや、清正の治水は大変優れていましたし、彼の人材登用は今でも見習うところがあり、ビジネス書でも引用されていますから、決して能筋ではないのですけど。
なんというか・・・あれです。後方補給と前方指揮は古来から今日にかけて、仲悪いですし。
さらにいうならこの二人。肥後を二分して治めているのに、仲が悪い。
そして宗教もまったく別のものを敬虔に信じていた。
そして川ひとつ挟んだ対岸に、互いに己の信仰する神を祭った。
いっそ水神か氏神が胃潰瘍になりそうな展開である(笑)
そんな清正が信じていたのは、当時商人から武家階級に広く信仰をあつめていた法華経。
現世利益をうたったその宗教は、戦国初期に京都の商人を中心に広く広まったという。
たいして行長が信じていたのは、堺で信仰を集めたキリスト教。
本人の出自は堺の豪商の次男とあって、一家で信仰をしていたといわれている。
現世利益と魂の救済。
水と油なみに理解しあえないことが手にとってわかる展開ではないか。
どちらが正しいや、戦国の宗教観を割愛しておおよそ簡潔に言い表すと、こうなるのだ。
まあ、どちらも、徳川の世で生きていけなかったのだが・・・
(方や六条川原で打ち首。方や二条城会見後の不審死)
勝麟太郎
勝海舟のことである。
幕臣でありながら「徳川幕府」ではなく「日本」の未来のため、倒幕維新を支持する。
長州征伐の和議講和を進めていたが、幕府のダブルスタンダードに自身が激怒することも。
日本で始めてアメリカへ渡った開臨丸の船長。
ちなみに福沢諭吉も同船。
さらに船長本人は船酔いでベットから起き上がれなかったそうです。
この男を思うとき、坂本竜馬と江戸城無欠開城を思い出すことだろう。
自分を暗殺しに来た男に説教をし、自分の舎弟にする。
実に江戸っ子気質の魅力あふれる人ではないか。
また無欠開城も高度な高度な政治的駆け引きをした。
維新政府の泣き所であるイギリスに「首都を焼くのは蛮民の仕業。そんな国と国交は結ばない」と圧力を掛けさせ、3舟の山岡鉄舟が西郷とやり取りしている一方、江戸の市民を船で非難させる。
さらに難解な問題である大奥も、そのとき一番地から持っていた某人に「出て行ってくださらねば、ここで刺し違えます。私と心中したという外聞はいかがなものかな?」と脅しまがいの脅迫により終結した。
(またその某人が実家の薩摩の悪口をいってしまい、さらに戦火を拡大するところだったのだが、それは別の話)
そもそも江戸進軍は西郷の独断であり、維新政府も木戸をはじめ女房役の大久保すら反対していたのだ。
こうして江戸城は戦火に見えることなく、現在は皇居として存在しているのであった。
また、勝も明治は名誉職に就きながらも、政治のごたごたとは一線をきし、彼らに冷ややかな視線を送ったといわれている。
英雄色を好む
伊藤博文の武勇伝。
あるとき伊藤は視察の関係で安芸に訪れました。
そして厳島神社に立ち寄り、そこの旅館に泊まったときのことです。
自分の給仕をする女中を愛らしく思った伊藤は、彼女の手を取り、そっといいました。
「紅葉のように素敵で、まるで食べたくなるような手だね」
労働でアカギレた手をもつ女中に、そんな言葉を掛けるひとはいませんでした。まして相手は時の権力者。
こうして、紅葉饅頭が厳島名物となりました。
厳島は別段、紅葉の名所というわけでもないのですけどねっ
またあるとき、あまりにも華やか過ぎる伊藤の女性関係について、記者が質問しました。
「芸者をえらぶコツはなんですか?」
「地元で一流の芸者を選ばないこと。
その芸者には土地の権力者の息がかかっているからね。だから2流3流の芸者を座敷に呼ぶんだ」
ノンフィクションです。
総理にならなかった男(2)
井上馨
悪評高い明治の汚職大臣である。
念のためにフォローにならないフォローをするなら、汚職大臣のさきがけは山県である。
さらにフォローにならないフォローをするなら、料理が趣味。ただし致命的にまずい。親王様すらときの大老に「お・・・お、おいしいです、よ」とお世辞を言うほど。それ以降悪化。
でも沢庵だけは冗談抜きにおいしいそうです。陛下のお墨付きをいただくほど。
そんななにかと話題の多い井上だが、彼は総理大臣になっていない。
汚職だから? いやいや、明治の重鎮で総理になっていない数すくない男なのだ彼は。
それも首相以外の全大臣職は経験済みなのだから、彼が首相就任しなかったのは、もはや恣意的に他ならないだろう。
事実第四次伊藤内閣解散後、次こそは井上が総理大臣に! と回りは動いた。
井上に「お願いします先生!」と頭を下げにいくと、顔に刀傷のある井上は、「渋沢が大臣をやるならかんがえてやる」とにやりと笑っていった。
議員たちは日銀のもとに走った。
「渋沢さん! 大臣になってください!!」
「断ります」
「そこを何とか! まわりの方も、何とか言ってください!!」
「この大切な時期に渋沢さんに抜けられたら困ります! いやです!!」
「回りも反対っすか!!?」
こうして渋沢は大臣職を拒否。
同時に第一次井上内閣も水に流れた。
そして後日談。
井上と渋沢が飲んでいると、
「渋沢、断ってくれてありがとな」
「断るダシに使わないでくださいよ」
と二人で笑ったといわれていたりしている(脚色アリ)
総理にならなかった男(1)
連続して児玉源太郎です。
あるとき、第一次桂太郎内閣が解散する、といううわさが流れた。
その時、次の総理大臣として声がかかったのが、児玉である。
児玉は内閣就任こそしているが、総理大臣のいすに座ったことは、これまで一度も無い。
だが、軍部への影響力、そしてその抑止弁として児玉は大変有力な男であった。
児玉自身、乗り気だった、といわれている。
だが児玉が周りに担ぎ上げられるよりはやく。ニコポンは手を打った。
辞職しなかったのだ。
これにより児玉の総理就任はまた遠ざかった。
ただし組閣され、政治の中枢に入ることは可能だった。
しかしここでいったん、上り詰めた大臣職を捨てねばならない事態が発生した。
それが日露戦争である。
日露終結後、もう一度児玉就任がささやかれた。
だが・・・・・・。
児玉は没してしまう。
一部の政治家にとって非常に都合のいい彼の死は、暗殺ではないか、とささやかれている。
日露戦争の始まりと児玉
児玉源太郎。
幕末末期に生まれた彼は、長州の出身である。
だが、長州といっても支藩の生まれのため、長州閥との相性はよくなかった。
(長州閥のドンが児玉の先輩とものすっっっごく仲わるかったのも原因だな)
総理大臣に近い男といわれていたが、結局は総理就任することはなく、日露から2年後、その命を燃え尽きさせる。
彼は日露終結後、急速に衰弱し周囲に「日露で持てる限りすべてを使い果たした」といわれた。
事実彼は陸軍であり大臣でありながら、戦争のために参謀と、自分の身分を格下げ。
そもそも児玉前任の戦略担当も、巨大な帝国との勝利をもぎ取る不利な戦争の計画のため、過労死していた。
もちろん、このときの日本に戦争回避できる・・・・・・なんてことはない。
ここで戦わなければ、日本は今でも共産国家でグルジアのようにロシアに蹂躙されているだろう。
だが、(当時)ロシア帝国の陸軍は世界最強といわれていた。
それと圧倒的国力下がる新興国日本が勝てるのか?
白人がまだ有色人種に土をつけられていないこの時期、日本の勝率は絶望でありながら、日本は戦争回避ができなかった。ロシアが戦争する気だったからだ。
ドイツ軍人は言った。
「児玉が参謀に降格した以上、日本は勝つ」
唯一といっていい、日本への勝利宣言だった。
ほかは、ロシアに弾圧されていたユダヤが外資を購入するくらいしか、日本への正気は無かった。
児玉は政治家でもあった。
多くの政治家は、日露決戦を避けたかった。
だが伊藤博文ですら日露決戦を否定すると「臆病者!」とののしられ、山県が日英同盟の打診をする。
そしてロシアとフランスが軍事同盟をしている以上、日本とイギリスが同盟を結べば、それは日本vsロシアの図式に他ならないのである。
「六割の勝利。早期決戦。早期条約締結」
これを掲げ、日露戦争の火蓋は切って落とされた!!
幕末維新の人
島田魁を知っているだろうか?
大垣藩出身で、新撰組の中でも古参の人である。
また巨体の人というイメージが似合い、汁粉が大好き、という一面も伝わっている。
彼は新撰組の二番隊に属していた。
永倉との相性もよく、実働部隊筆頭である永倉の補佐官として業務に携わっていたようだ。
そんな中、永倉が近藤と袂をわかった。
それも喧嘩別れであり、古参であれば古参であるほど、近藤の発言は顰蹙を買った。
正直、土方も島田は永倉とともに袂を分かつと思っていたようだ。
実際永倉をしたいともに隊を脱した人間は1番2番隊を中心に多かったと聞く。(当時一番隊の沖田が病に付していたため永倉が両隊を牽引していた)
だが、島田は残った。
新撰組にとどまり、土方を支えた。
土方ともに会津へ、仙台へと北上し、彼は新撰組の隊士でありつづけた。
しかし、新撰組は降伏。
時、わずか遅れて函館政府も降伏した。
その後彼は、京都の寺で僧になったという。
土方の戒名を肌身離さず持ちながら・・・
幕末の人物
井上聞多
・この名は世子(長州藩主世継ぎの尊称)から賜った
・諱は惟精
・明治は井上馨と改名する。
・天保6年生まれにして満79まで生きる
井上馨といえば「ああ、汚職の・・・」と思われるだろう。
否定しない。
井上聞多は長州藩士の上士であり、世子の側仕えという大変将来有望な役職についていた。
そんな井上が友人として交際したのが、当時桂小五郎・育(※長州特有の制度。優秀な人材を立てるため、後見をつけ与力のような立場を与える/ちなみに桂に断りなく高杉が伊藤を育にした。桂に断りもなく)であった伊藤博文である。
この二人の交友は大変長く続き、明治は家と家との交流であった。
井上は自身が保守体制側でありながら、そういった家は薄く、どちらかというと堅気とも違った・・・まあそっち側に非常になじんだ、といわれている。
日本が鎖国、しかも長州という攘夷の総本山である長州が極秘に出した「密留学五人(長州ファイブ)」のメンバーの一人であった。
が、もともと正規のメンバーに井上はいなかった。
そこを世子にほめられた早耳の聞多はどこからともなく聞きつけ、責任者の周布政之助に「俺たちを連れて行かないとばらす!!」と正しく脅して、井上と伊藤はイギリスの密留学メンバーになった。
また大変金策が得意な男であり、それが災いして明治の汚職大臣と呼ばれるわけだが・・・。
高杉が「聞多、資金ぐりよろしく」といわれるとどこからともなくお金を工面してくるという。
―――つまり、聞多の「公でも私でも金は金」の精神は高杉が育んだ・・・?
五人の密航のうち、井上と伊藤だけは6ヶ月で帰国する。
四カ国連合下関砲撃がせまったからだ。
お神酒徳利とまでいわれたツーカーの二人はほかの三人と別れ帰路につき、日本史の舞台に再び顔を出す。
うんやかんやで高杉が幕引きしたこの一件の余波はすごく、聞多はある日奇襲された。
真夜中である。
全身53ハリという大怪我を負った聞多は介錯を頼んだが母親が「聞多を斬るなら母も斬りなさい!」といい介錯ではなく治療がなされた。
四日でおきて飯を食べるようになった。
二ヶ月もすれば前線復帰した。
この脅威の生命力ばところどころに発揮されており、なるほど、79まで生きただけはある、と思わせる。
聞多の出自のよさは、家系を見れば一目瞭然だろう。
生まれの井上家は戦国のあの井上の傍流であるし、養子に行った先はあの志道である。まさにお歴々のお家に生まれながら生涯の友は伊藤博文という水のみ百姓の倅なのだ。